能登半島地震 わたしと珠洲1

つぶやき

わたしの生まれは石川県能登半島先端の珠洲市です。
わたしの家族は当時大阪の守口市に住んでいました。
母が珠洲市出身だったので、出産のため里帰りし、珠洲市総合病院でわたしを生みました。

母の実家は珠洲市中心部から東に少し離れた鉢ヶ崎海岸近くにあります。
鉢ヶ崎海岸には6階建ての珠洲ビーチホテルがあります。
そこから浜風に打たれた杉板の外壁で、重い瓦屋根ののった古い家屋が並ぶ海岸沿いの道を山側に一本入ったところに家があります。
家から海は見えないのですが、家の中でも波の音が聞こえ、磯の香りが漂っているので、常に海を感じます。

祖父は漁師でした。
わたしの母は3人姉妹で、一番上の叔母夫婦が祖父母と同居していました。
祖父母がなくなって10年以上経ちますが、同居していた叔父も2020年3月に亡くなり、珠洲の家には叔母が一人で住んでいました。
叔母は創業400年以上経つランプの宿で仲居をしたり、ハーブ畑で働いていました。
自宅で原木しいたけを栽培していて、ダンボールいっぱいのしいたけをよく送ってくれました。

わたしは珠洲市で生まれましたが、家族は数日後には大阪に戻り、出生届も守口市で出しています。

わたしが生まれて数年後に家族は東京都中野区に引っ越します。

それから毎年夏になると家族で珠洲に帰省しました。
はじめは当時新宿から出ていた珠洲行きの夜行バスを利用していました。
父が車を買ってからは関越道を使って新潟に抜けて北陸道で金沢に出て、それから能登半島を北上し、一日がかりで珠洲まで行っていました。

時には夏休み中に豊橋に住む叔母に連れられて、いとこと一緒に珠洲に泊まりに行き、数日後に母と父が合流するということもありました。

わたしが小学3年生の時に埼玉県大宮市(現さいたま市西区)に引っ越しました。
それからしばらくして阪神大震災の翌日に祖父がなくなりました。
数日後のお通夜に出席するため、珠洲に向かいました。
能登の冬は厳しく、雪も深いため、車ではなく列車で行きました。
それがわたしにとってはじめての冬の珠洲でした。

大宮から金沢まで寝台列車に乗りました。
寝台の窓とカーテンの間に頭を入れて車窓からの景色を夜中じゅう眺めていて、窓ガラスから伝わる冷気で風邪を引いてしまったことを覚えています。
朝金沢に到着し、七尾線、のと鉄道と乗り継ぎ終点の蛸島まで行きました。
道中の車内で阪神大震災の被害の様子をラジオで聞いたことを覚えています。
夏の潮風がかおるころとは異なり、雪が膝丈以上積もり、凍てつく風が吹いていました。

その時も母の実家に泊まったのですが、朝ご飯を近くの集会所で食べたことを覚えています。
地域の方々が作ってくれた朝ごはんを食べました。
中でも地元で採れた磯の香りが強く、太くてぬるっとしたもずくが入っているみそ汁は今でも強く記憶に残っています。

祖父が亡くなってからも珠洲に行きましたが、家族そろってはそれが最後だったと思います。

2005年3月の学部最後の春休みにはわたし一人で珠洲に行きました。
JRの青春18切符を使い、新潟経由で向かいました。
のと鉄道の穴水から先が廃線になるということで、乗り納めをするのが目的でした。
帰りには雪が積もった蛸島駅のホームで長靴を履いた叔母が見送ってくれたのを覚えています。

2019年のゴールデンウィークには妻を連れて車で珠洲に行きました。
そのころ叔父はかなり体調を崩していましたが、飯田のショッピングセンターシーサイドで一緒に食事をしました。

2023年10月にわたしの第一子が生まれ、珠洲の叔母に電話で報告したら大変喜んでくれました。
「珠洲では赤ちゃんを見ることは本当に珍しいからうれしいよ」と言ってくれました。

そして2024年1月1日を迎えました。

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